これまた聖書を読むのと同じことである。新約聖書は 「神の言葉」であって、そこにはいかなる間違いもなく、深い深い真理に満ちているのであります、などと、安っぽい、歯の浮くような説教はもうやめときなさいな。だいたい、歴史上存在した人間の書いたものである。人間の書いたものは、いろいろある。まさに、すぐれた長所もあれば、実にくだらないことも、しばしば有害なことも、新約聖書には何でも満ちている。
しかし、いろいろくだらないことがあるからとて、それなら放棄しましょう、などと短気になってはいけない。だいたい、百%あがめたてまつるか、百%くだらないとみなして放棄するか、などというあれかこれかは、あまりに幼稚すぎて、お話にならない。人間の歴史的事実というのは、もっと複雑なものだ。
宣伝になるけれども、何なら、今度発行する 『新約聖書・訳と註』の第4巻をお読みあそばし。使徒パウロが歴史上果した功績は大きい。しかしこの人物がどれほどくだらない偏向と、自己中心の幼稚さと、安っぽく威張りくさり、しょうがない民族優越意識をふりまわし、等々。あるいは、擬似パウロ書簡の、たとえばいわゆるエフェソス書簡のどうにも嫌ったらしいユダヤ人優越意識だの、牧会書簡の、まさにくだらない正統意識と安物道徳の展覧会だの……。そういう歴史的実態を正直に見ることをせずに、神棚にまつりあげて、有難や有難や、なんぞとやっていたのでは、キリスト教は堕落するばかりではないか。
しかし他方、そういったさまざまをはらみながらも、そのキリスト教が古代西洋世界の多くの人々に喜んで受け入れられていった長所は何なのか、それをしっかりと見極める目がなければ、せっかくの人類の重要な遺産が失われることになってしまう。新約聖書は、批判的に読んではじめて、十分に生きた存在になるのである。
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田川建三「今日の一言 第11回」 http://www6.ocn.ne.jp/~tagawakn/sub19.htm |